東北・福島ルポ ―中― その笑顔の裏で

2013年12月07日

帰村宣言後も住民半数

 一行を乗せたバスは美しい川面を横目に見ながら、 山あいの道を進む。 何気ない風景の中、 所々に黒い大きな袋が山積みになっていた。 その中には放射能に汚染され、 除染作業で剥ぎ取られた山肌の土や草などが詰められている。 それが今も集落のあちこちにあり、 中には家の庭に置かれているケースもあった。
 福島県内全域で約2800万立方メートル (東京ドームの容積23個分) に及ぶ廃棄物は、 いまだそれらを保管する中間貯蔵施設すらできていない。 これが2年9カ月をへた福島の現状だった。
 到着したのは、 双葉郡川内村にある 「五社の杜サポートセンター」。 目の前には50戸の仮設住宅が軒を連ねている。 川内村では、 歌声喫茶などのほか、 黒豆ごはんとさんまのつみれ汁の炊き出しも行った。
 佳境に入った歌声喫茶では、 千昌夫さんの 「星影のワルツ」 を演奏。 ピアノ、 アコーディオン、 ギター、 ベースの演奏で、 メンバーも住民も一緒になって歌う。
  「今日は最高だね。 こんなにたくさんの人が来てくれて、 時間がたつのも忘れちまった。 ありがとう。 本当にありがとうね」。 人一倍元気な歌声を披露してくれた住民の猪狩利夫さん (88)。 手押し車を押しながら、 「また来てほしいなぁ」 と言い、 自分の仮設住宅へ戻っていった。
 事故当初、 福島第一原発から20㌔圏内が警戒区域、 20―30㌔が緊急時避難準備区域に設定され、 全村民が避難した川内村。 線量が低いことから2011年9月に緊急時避難準備区域が解除されたことに伴い、 昨年1月に 「帰村宣言」 を出し、 3月からは役場機能をはじめ、 避難先だった郡山市から住民が戻り始めた。
  「帰村宣言をしたらみんな戻ってくると思っていたんです」。 同村社会福祉協議会の森雄幸さんは言う。 しかし、 実態は違った。 宣言直後、 村に完全帰村した住民は人口2840人中わずかに400人。 今年10月に行ったアンケート調査では、 週4日以上村にいる人は1500人まで増えたものの、 帰村率はいまだ50%を少し上回っただけだ。
  「除染が進んでいない」 「仕事がない」 「店がない」 「進学先だった沿岸部が壊滅状態」 ―。 目に見えない放射能に対する不安は、 村に帰る気持ちを打ち消した。 特に幼い子どもを持つ親や、 未婚の若者世代は帰村率が低く、 村に戻ってきたのは大半が高齢者だった。
  「これから40年か50年かわからないけれど、 低線量の被ばくと付き合っていかなければならない。 気持ちが何度も折れそうになるけれど、 みなさんがしてくださるような支援を受けて、 何とか勇気を出しています」。 一行と住民らが楽しいひと時を過ごしている間も、 30㌔先の福島原発では燃料棒の取り出し作業が行われていた。
 宿泊先のいわき市へ向かう途中。 夜間の滞在が認められていない居住制限区域の富岡町を抜ける。 人の気配がなく、 民家の屋根は地震で落ちた瓦が修復されないまま。 田畑には雑草が生い茂る。
 突然、 目の前の道にフェンスが現れた。 「この先、 帰宅困難区域」。 柵の向こうに見える家々は何の被害もないように見える。 しかし、 今この瞬間も放射線が飛び交っている。 ここから原発までの距離は10㌔もない。 人がいなくなった土地で、 冷たい光を放つ信号機が無意味に点滅していた。
 

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